その人の都合で決まる「好き、嫌い」誰からも「いい人」でいることは不可能です
人間の好き嫌いは、その人の都合によって決まります。 自分にとって都合のよい人は好きな人、自分にとって都合の悪い人は嫌いな人になるのです。 なのにみんなに好かれようとしてくたびれてしまってはいないでしょうか。
人間の好き嫌いは、その人の都合によって決まります。 自分にとって都合のよい人は好きな人、自分にとって都合の悪い人は嫌いな人になるのです。 なのにみんなに好かれようとしてくたびれてしまってはいないでしょうか。
私たちが他人からどう思われるかを全く気にせずに生きていくことは不可能です。 けれど、あなたが「他人の目に映った自分=自分の全存在」と思っているとしたら、これは大変危険なことです。
見栄を張ってあまり仮面をかぶりすぎると、素顔の自分が分からなくなります。 自分の素顔が分からなくなると、自分は何者かまで分からなくなり、自分が本当に望んでいることや、自分が本当にやりたいことを見失って、生きる力をなくして続きを読む「よく見られたい」という見栄が、あなたを生きづらくさせている[…]
お釈迦さまは、よりよい縁を選びなさいと教えられました。 なぜなら、私たちの心は弱く、ちょっとした縁でコロコロと変わるからです。 朱に交われば赤くなるといわれるように、周りにいる人や環境などの縁に大きく影響を受けてしまうか続きを読むどんな人と出会うか、どんな環境に身を置くかで、人生はガラリと変わる[…]
仏教では、すぐに結果となって現れる行いを「順現業」といいます。 しばらくしないと結果が現れない行いを「順次業」といいます。 だいぶ後になって現れる行いを「順後業」といいます。 お釈迦さまは、「早く実を結ぶ行いもあれば、遅続きを読むなかなか結果が出ない時は、定期預金をしていると思えばいい[…]
思いがけないことも、過去のあなたの「行い」が原因となっている、というのがお釈迦さまの教えです。 ですから、「たまたま、偶然、運が悪かった」「どうしようもない、しかたがなかった」とあきらめるのではなく、もっと本質的な原因を続きを読む思ってもみなかった芽が出てきた時は、過去にどんなタネをまいたかを振り返ってみよう[…]
壁に向かって優しい球を投げれば、優しい球が返ってきます。 反対に、壁に向かって思いっきり強い球を投げつけると、勢いよく自分に跳ね返ってきます。 あなたに向かって飛んでくるボールの勢いは、あなたが投げたボールの勢いが、あな続きを読む勉強せずに、腕立て伏せを一日何百回やっても、成績は上がりません[…]
仏教では私たちの行いのことを、業種子といいます。 「業」とは私たちの行いのことです。 なぜ行いをタネにたとえられているのでしょうか。 それは、私たちの行いに運命を生み出す力があるからです。
私たちの運命は、何か超越的な存在が決めているのでしょうか? 生まれつき決まっていて変えることができないのでしょうか? お釈迦様はどちらも否定されています。 タネが花を咲かせ、実をつけるようにあなたの行いが幸続きを読む「運命は決まっている」というのはあなたを不幸にする考え方です。[…]
「今の私」は生まれつきで絶対に変わらないものなのでしょうか。 仏教を説かれたお釈迦様は、「固定不変の私というものは存在しない」と教えられました。 固定不変とは、生まれつき決まっていて、変わらないという意味です。